貴重

2013 年 2 月 21 日

「人生の中で、もっとも貴重なもの…」
最近、そんな話をTVニュースで耳にした。
人はそれぞれ価値観が違うのだから、
人の数だけ「貴重なもの」は存在すると思う。
ただ、お金が貴重!という人は多数いるような気がするけど…

貴重:極めて大切なこと(広辞苑)

話をTVのニュースに戻すと、キャスターは、
“人生の中でもっとも貴重なものは「時間」である”と言っていた。
“しかし人は、もっとも無駄に「時間」を消費する”とも…

どんな人にも時間は平等に流れる。
不変で当たり前だけど、有限なのだよね。時間は…
社会には、全ての場面において期限があり、
時間は期限によって有限なものになる。
限りがあるから貴重。
なるほど、映画じゃないけど権力者なんかは「永遠の命」を欲しがるなぁ~
寿命という期限に、人生という時間があるから…

なんか壮大な話になりかけちゃったけど、
果たして時間というものは、本当にもっとも貴重なものなのか…?
時間は要素であり、むしろ時間を使って得られる「成果」の方が
大切ではないかと、ボンクラ頭ながらに思う。
たとえば小生が携わっている少年サッカーの場合、
時をかけて得られる成果はたくさんある。
選手の笑顔と成長、父母とスタッフの協力=信頼関係、
少年サッカーを支える多くの関係者とのつながり…
挙げればきりがない。
どれもかけがえがなく大切なものだ。

超多忙な人は、たぶん“時間は貴重”って語るだろうなぁ~
そもそも時間がなければ、何もできないからって…
だけど時間は概念であり、心の働きで創りだすことができる。
何かをやってもやらなくても、
時間を使って得られた心の満足感や達成感…
これこそが貴重なものではないのかなぁ~
時は金なり!っていうけど、
まさしく、お金といっしょで時間も使わなきゃ意味がない…

小生の場合、
人生の貴重なもののひとつは「冷たいビール」である。
しかし小生は、もっとも無駄に「ビール」を消費する。
まぁ~無駄に消費したビールのおかげで、
いろんな方々とのネットワーク(人生のつながり)ができた。
これこそが小生のもっとも貴重なものだと思う。
時間もビールも、人生の要素だよね!
勝手に納得して、人生のためにまた今夜も飲もう!

再見

収穫

2011 年 9 月 19 日

先ごろ、会社の畑で、ジャガイモを掘った。

出てくるのは、ピンポン玉に毛の生えた程度の大きさ。

みんな小さい。

あれれ!今年は不作だなぁ~って思っていた矢先、

近所の家庭菜園では見事な収穫ぶり。

どちらかというと、

火山灰的な土質でやせた感は否めない土地に見えるのに…

さぞ、肥料とかをどっさりと入れているものと、

勝手に憶測していた。

 

先日、その菜園の持ち主と話をする機会があった。

「今年は、会社のイモがぜんぜんだめだったのですけど、

ここは立派なのがごろごろしていますね!何が違うのですかね?」

と聞いてみた。

「土じゃないですか…」とのこと。

確かにいつも土をさわっている姿を目にする。

軽石を取り、土を鋤(す)いて、

枯れ草やコンポストで作った自家製の肥料を、施している。

あまり広くないその家庭菜園には、

いろんな野菜が植えられているが、

確かにどれもこれもよく育っている。

1m当たりの収穫率はかなり高いであろう。

見ていて、ふと思った。

野菜そのものが持っている生命力というのか、

元気に成長したいという欲なのか分からないけど、

いい土は、それらの野菜の個の力をはぐくむのではないかと…

土の力、“土力”か!

 

選手を野菜に例えるのは如何なものかもしれないが、

サッカークラブも菜園も同じ様な気がする…

“土”に相当するのは、

クラブが掲げるミッション(使命)や

ビジョン(目指す姿)などの理念であり、

父母会やスタッフなどの支える組織である。

選手一人ひとりが、

元気でなかよく楽しく個性を伸ばすことができるよう、

“土”のなすべきことしっかり見極めていくことが

重要なのだろう。

 

「本当の園芸家は、花を作るのではなくて、土を作る」

チェコの作家、カレルチャペックのことば。

以前、新聞に載っていたこのことばを思い出す。

そうだよね、選手はいい環境(土)さえあれば、

自己の力でぐんぐん伸びていく。

そして、その時(収穫の時)がきたら、

見事な味の出る選手になる。

一見地味に見える土作りこそ、

われわれスタッフや父母会が力を注ぐべきことですね。

買ってきた科学肥料を大量に入れても、いい土は生まれない。

手塩にかけた自家製肥料(選手への真摯な思い)を、

手を抜くことなく入れつつ耕す努力が、土力になるかな…

 

再見!

言葉

2010 年 7 月 15 日

先ごろ行われた道新杯でのこと。

泉野の準々決勝、

ゲームが終わって両チームがベンチ挨拶へ向かう。

当然、勝った泉野のメンバーは歓喜の声。

一方、負けたチームのメンバーは、悔しさからか涙が止まらない。

重い足取りながらもベンチ前にきちんと整列したあと、

キャプテンが声を振り絞って

「ありがとうございました」の掛け声。

体を震わせつつ大きな声で唱和する他のメンバー。

辛くとも深々と頭を下げるその紳士な態度に、

強く感動させられる。

「お疲れ様、ナイスゲームでした。ありがとう」と答えた。

 

ベンチ挨拶の別れ際、相手チームの一人の選手が涙を流しながら、

「僕たちの分までがんばってください!ぜひ優勝してください」

と言葉をかけてくれた。

正直、鳥肌が立った。

うれしくてたまらなかった。

全道に行く夢を絶たれ、無念の気持ちでいっぱいなのに…

どうしてそんなことが言えるか?

いやいや、そんなやぼなことは考えまい。

彼の心の広さに比べ、自分のちいささに嫌気がさす…(悲)

 

言葉の威力はつくづくすごいと思う。

彼の一言で、どんなに勇気をもらったことか…

勇気はやる気を導き出し、

やる気は人の行動をあっさりと変えてしまう。

自分もサッカーのスタッフという立場から、

発する言葉に責任が伴う。

重々承知しているが、なかなか合格ラインに達しないのが実情。

つい感情に負けてしまう。いつも反省と後悔の繰り返しだ。

 

スタッフの言葉、いわゆるコーチングは、

 ・シンプルにかつ選手が考える余地を残して情報を伝える

 ・選手の能力、チームの能力が最大限に発揮するよう支援する

ことが目的だと考える。

言い方を変えると、

選手の資質を見抜き、失敗を恐れずトライさせ、

課題について明確なアドバイスを送るということか…

書けば簡単だが、有言実行が難しい。

 

かの坂本竜馬は、

「自分の腹の中で、ちゃんとぬくもりのできた言葉だから、

その言葉一つ一つに確信の入った重みがある」

と、司馬遼太郎が評している。

先ほどの選手と同じ、“人への思いやり”がなせるのだろう。

 

今回の大会は、本当に勉強になった。

ぬくもりのある言葉、態度、

少しでもあの選手のようになれるよう精進しよう!

 

再見

名言

2010 年 3 月 7 日

正直、

会社の宴会部第一宴会課特殊宴会係に所属する自分には、

まったく似合わないと思うし、

買うときに人に見られたらちょっと恥ずかしいものがある。

ビジネス手帳だ。

今回もそそくさと購入したわけだが、

中に、手帳メーカーが選んだ「21年度の名言」

という折込みが入っていた。

その受賞作品のひとつ・・・

 

“努力は「たし算」、協力は「かけ算」”

個人は、一つひとつの努力を積み重ねることにより成長する。

チームは、個人の集合体。

それぞれの努力を足し合わせても限界がある。

だが、チームワークという目に見えない線で結ばれた瞬間、

個の努力は、無限大のパワーに変貌する。

たった一行で、団体競技の「真髄」を突いていると思う。

ある主婦が学生時代に監督さんから頂いたことば。

 

惚れましたね。このことば。

読んですぐに2つの「名言」を思い出しました。

まずは、

“大火は小火がいくつ集まっても出せないほどの大熱を出す”

小さな火がいくつよっても結集しない限り、

大きな一つの火のエネルギーには遠く及ばないということ。

団結力の尊さを説いたもので、

18世紀、ナポレオンを破ったプロシアの名参謀

クラウセウィッツのことば。

 

もう一つ。チクッと長い。

“チームスポーツは個人ではなくチーム一丸で動くこと。

私は監督として、ベストの11人ではなく、

11人でベストになる選手を使う。”

個の力より組織の力のほうが遥かに勝るということ。

アメフトの名監督ニュート・ロックニーの

あまりにも有名なことば。

古今東西、お互いを尊重し、

気遣い・いたわることで生まれる団結力は、

未曾有のパワーを産み出す!という真理を

ストレートに教えてくれる。

 

されど、落とし穴もある。

掛け算は、全員が目指すベクトルを合せ、

参加しなければ成立しない。

一人でもやる気がなければ、 ×0=0となり、

一気に分解・消滅する。

結局、選手のモチベーションがカギとなるわけだが、

これはすぐに上がるものではない。

日頃からの地道な活動を通じて、

徐々に培われると思う。

その場しのぎのモチベーションはもろい。

 

特殊宴会係の自分の場合、

「迷言」ならそこそこ自信はある。

身から出た サビを効かせた いい男!

飲まなきゃ、トム・クルーズ!

まだまだ、迷いがある年頃だなぁ~

 

再見!

時間

2010 年 1 月 14 日

ちょっと前に年末の大掃除をして、

少し前に年越しで紅白を見て、

ついこの前に新年会でハッピーと思ったら、もう2週間・・・

歳を取ると時間は早く感じるというが、

科学的にはありえないよね。

時間は唯一万人に平等なものだから。

年齢には関係ないけど、感覚的に「時間は急ぐとなくなる!」と思う。

先週の北村U-10フットサル大会を皮切りに、

1月は大会が目白押し。

10月末から2ヶ月少々フットサルの準備をしてきたが、

諸事情により充分なトレーニング時間を確保できたとは言い切れない。

どのチームも実情は同じだろう。

限られた時間で、実のある成果が要求される。

では、どのようにすればいいのだろうか?

トレーニングの成果、いわゆる選手の実力を、

たとえば電力量(電気料金)に見立てたなら、

「電力量=電力×時間」であり、

“電力”は1時間当たりの電気の力。

これを選手が発揮するその時々の“努力”と置き換えると、

「実力=努力×時間」といえる。

つまり、時間がなくとも、費やす努力が多ければ、

実力は補えるということになる。

努力を多く?と思うが、これは集中した質の高いがんばりのことだ。

「時間は限りある資源」という。

資源は少しでも有効に使わなければならない。

少ない資源(時間)で多くの成果。

サッカーのトレーニングもハイブリットな時代か・・・

ちなみに、努力は無限の資源。

さて、時間が早く過ぎると感じる時はもう一つある。

「時間は楽しいとなくなる」である。

とくに、みんなとビール飲んでいるときは、口飲矢ののど越し!

時間の経過速度が速いので、追いつくために量をこなす。

つまり、飲む量×時間=酔い量となり、時間もお金も記憶もなくす・・・

今年はハイブリットな飲み方でいこうと思う。

飲む量か飲む時間かのどちらかでもと思うが、無理かなぁ・・・

再見!

流行

2009 年 11 月 27 日

草食系男子と肉食系女子。

サラダなどの食物繊維ばかり食べるナヨナヨした男と、

焼肉ばかり食うプロレスラーみたいなゴツイ女。

疑うことなく勝手にそう思い込んでいた。

ある日、その思い込みはまったく違うことに気付き、

「おれって、やっぱオッサンか?」という焦燥感・・・

つい先日、新聞を読んでいると、

なんと!同じように思い込んでいる人がいたのだ。

うれしかったのと同時に、

「遅れているなぁ~」って自分を棚に上げながら笑ってしまった。

 

最近売れている本の一節に、

「親は子より必ず20年は遅れている」とあった。

考えてみると、自分は流行ものに本当にうといなぁ~と

あらためて思う。

今でも聴いている音楽は70年代~80年代のディスコサウンドだし、

好きな食べ物は、小学生の頃からジンギスカンとホルモン。

車といえば、何といっても箱スカが大好き!

さすがにボンタンのズボンははかないが・・・

 

とはいえ、無理して追いかける必要もないと思う。

流行がなんだろうが、自分のお気に入りのほうが大事。

頑固とは違う。

これまでの経験や生まれつきの性格などから培われた

自分の好みを尊重するということ。

時代に流されずに信念を持って生きたい。

 

ただ、サッカーの場合、この考えは当てはまらない。

日々進化し続けている世の中のサッカーに、

遅れを取らずしっかりついて行く必要がある。

スタッフの大きな役目として、

選手に対し最新の知見・技術を常に提供することがある。

選手は、スタッフを乗り越えなければならないのだから・・・

自分たちが教えていただいた頃のサッカー経験だけで指導していたら、

それは選手・スタッフ双方にとって不幸。

サッカー界の重鎮の言葉に、

たしか「勉強を止めたら、指導も辞めるべきだ」という名言がある。

固定観念にとらわれることなく、かつ流れに遅れないためにも、

日々の情報収集・研究・挑戦に努めなければならない。

 

麦類飲食系男子(こちらは読みどおり)としては、

相変わらずアースウインド&ファイアーを聞きつつも、

サッカーに対する気持ちだけは、EXILEでいきたい!

どっちも大勢で歌うグループサウンズみたいなもんだから、

何とかなるだろう・・・

 

再見!

判断

2009 年 10 月 24 日

ガラにもないないけれど…と前置きしつつ…

最近の話題の一つに、八ッ場ダムの問題がある。

工事を中止するのか、継続するのか、

地元を巻き込み大いに揺れている。

すでに巨額の資金を投じているが、

日本全体という大きな視点から考えたとき、

建設中止の方がメリットを生むという政府の判断。

 

一方、先般行われた北ロータリー杯。

○○心と秋の空よろしく不安定な天気の中、

なんとか各ブロックの決勝までこぎつけたところで雷発生。

問答無用の即中断、選手はハウスへ避難の指示。

この先の不安定な天候を予測することは困難であり、

選手の安全・健康を考慮したとき、

決勝は中止すべきという関係者の判断。

 

ダム建設と少年サッカーを比較するのは、

ちょっと無理があるかもしれないが、

どちらも「何を優先させるのか」「何が大事か」ということで、

判断は大きく変わる。

八ッ場ダムの場合は、地元より国益であり、

サッカー大会の場合、大会の完遂ではなく選手の安全である。

 

当たり前のようだけれど、自分のような凡人にはなかなか難しい。

なぜなら、そこに妥協や情が入り込むと、

判断は迷い・鈍り・遅れてしまうから…

初志を貫き通す強さが必要なんだよねぇ~

 

判断は、計画に変化が生じたときに必要とされる。

順調なとき、何もないときには、あまり要求されない。

では、判断する際に大切なことはなんだろうか?

ボンクラ頭ながらに、次の三つを

“事前にハッキリさせておくこと”ではないかと思う。

1つ目は、当初の目的と具体的な成果。

2つ目は、活動中のトラブル予測と対応。

3つ目は、責任の所在と責任者の自覚。

スタートとゴールが明らかだと、途中で迷いにくく、

不測の事態を想定しておけば、迅速で的確な判断がしやすい。

最も重要かなって思うのが、

どこの誰が判断をし、いざというとき腹をくくるかを、

周りも本人も認識しておくこと。

誰も判断しない場合、悲劇が待っている場合が多い。

ダム建設だろうがサッカーだろうが、

万事に共通する話なんじゃないかなぁ~

 

おおよその物事は、なかなか順調には進んでくれない。

結果、多かれ少なかれ判断しながら生きている。

デジタル的に白黒決めることができればスムーズなのだが、

自分はアナログ的になってしまうことが多い。

まぁ~ただ、川の流れのように、多少蛇行しつつも、

目的地までしっかり進めればいいんじゃないかと、

言い訳がましく思うのですね。

無駄のように見える回り道も、

以外と人の世には必要なもの。

多すぎる自分はちょっと反省すべきですが・・・

(ちなみに八ヶ場ダムの問題に関しては、個人的に

賛否ノーコメントです)

 

再見!

好き

2009 年 10 月 1 日

「好きこそ物の上手なれ」ということわざがある。

自分が好きなことは、一生けんめい努力するので、

どんどん上達するものだということ。

つくづく言い得て妙だと思う。

そんな話。

 

先般行われた本部長杯(3年以下の大会)でのこと。

高学年の大会続きだったので、

久しぶりに低学年のメンバーを見た。

すごく上手になっていたのにびっくり!

もっと驚いたのが、みんな、“大人”になっていた事実。

自分達で時間管理し、準備してコートまで移動、待機、試合、撤収。

当たり前のことを誰に言われるでもなくできている。

みんなで声をかけ合いながら・・・

そんな彼ら全員が必ず言う言葉。

「もっと試合に出たい!もっと試合したい!」

交代したときの悲しい目、出るときの輝かしい目。

本当にサッカーが好きなのだと思う。

 

同日程で開催のオオムラサキカップ(4年生大会)でのエピソード。

大会直前の練習後、4年生を集めてミーティングした際、

一人の選手がはにかみながら、みんなに後押しされながら、

こちらに申し出てきた。

「今度の大会でキーパーをやりたい!」

彼は、この1ヶ月間、チームメイトにお願いして、

ずっとキーパー練習をしてきたらしいのだ。

キーパーをやっている姿をほとんど見たことが無かったので、

ちょっと意外だと思ったが、

本人も含め仲間みんなが応援している様子に了承した。

「やれるところまでやってみなよ」

結果、PK戦で2発止める大活躍!優秀選手に選ばれた。

何が彼を決意させ、努力させ、実行させたのか・・・

まぎれも無く、サッカーが好きだということだろう。

 

好きなことが見つかると、次に必ず“欲”が出る。

「上手くなりたい、あんな風になりたい」、

そして上手くなることによって、

「上手くなってみないと分からない未知の世界を経験したい」。

“欲”は、好きな度合いに比例していると思う。

だからこそ泉野の活動目標は、サッカー好きを増やすことなのだ。

 

スタッフのやるべきこと。

それは、サッカーの楽しさに気付いてもらうこと。

“興味”から“好き”になってもらうこと。

“好き”にさえなれば、あとは自分達でやっていく。

我々は、やりやすいように、もっと“好き”になるよう、

ちょっとだけ手助けをする。これが理想。

 

「選手はサッカーを、スタッフは選手を好きになる」。

こんなチームを目指している。

まだまだ我々の修行が足りませんが・・・

少しずつ、でも着実に進みましょうか・・・

 

再見

後悔

2009 年 9 月 11 日

何かやろうとするとき、特にスポーツなどの勝負事では、

よく「悔いの残らないようにしよう」と口にする。

最近の掲示板にも、いくつか書き込まれているのが見受けられる。

 

悔いが残るというのは、どういうことなのか?

広辞苑を開いてみると、「悔い:あやまちを悔いること」。

さらに、「悔いる:自分のしたことについて、

そんなことをすべきではなかったと思う」とある。

つまり、何かをし終えた後に、

納得しがたい気持ちが残ってしまうということか・・・

 

サッカーは、器用な手ではなく、不器用な足を使うスポーツ。

ミスをするスポーツである。

失敗やあやまちは付きものだから、広辞苑どおりに解釈すると、

プレーヤーはしょっちゅう悔いが残るということになる。

ただ、実際はどうだろう?

多少のミスがあっても、試合後満足のいく場合はよくある。

では、本当に悔いが残るというのはどんなときなのであろうか?

例えば、アプローチをあきらめた途端に、

キーパーがこぼして、決定的なチャンスを活かさなかった場面などは、

まさしく悔やんでも悔やみきれない例であろう。

整理すると、悔いが残るか残らないかというのは、

自分のもっている力を出し切って、

達成感・充実感を得られるかどうかではないだろうか・・・

自分なりのベストをつくす!

勝敗ではない。

やるだけやって負けても、悔しさは残るが悔いは残らない。

同じ“悔”という字を使うが、意味合いは大きく違う。

 

以前、新聞に載っていたことば。

「チャンスの女神、勝利の女神には、前髪はあっても、後ろ髪はない」

 

こちらは、前髪とてっぺんの髪は少なくなりつつ、

サイドと後ろ髪ばかり元気な今日この頃である。

再見!

公約

2009 年 8 月 19 日

お盆も過ぎ、苫小牧では早くも秋の気配が漂う中、

衆議院選挙の公示で、日本中は選挙モードに突入!

どこの党の誰でもいいから、

苫小牧に少年団用芝グランドを作るという公約を掲げてくれると、

すぐに入れたくなるんだけどなぁ…(笑)

 

選挙公約といえば、マニフェスト(manifesto)。

直訳すると声明・宣言。

恐縮ながら、泉野SCにも近いものがある。

ホームページの「クラブ紹介」にアップしている「活動の考え方」だ。

少年団活動に携わる我々スタッフが、

選手と父母のみなさんに対して、

何を目指し(目的)、どのように行動(目標)するかを整理したもの。

すべての活動における一種の判断基準といえる。

選手や父母の皆さんへ示す“公約”に相当する。

 

以前、この“公約”を破ってしまったことがある。

忘れもしない苦い教訓。

フットサル全道予選での出来事。

接戦の末、PKにもつれ込んだ展開で、

正キーパーに替えて、大人並みに背の高い選手をキーパーにした。

一度も全道へ行くことが出来なかったこの学年。

ラストチャンスなんだ!という思いが頭の中をよぎってしまった。

替えられる選手の気持ちも考えず、

“公約”に反し、勝利を優先してしまった。

 

結果は、負け。

いや、試合結果よりもっと大きな負けとなった。

“公約”違反したダークな自分に、志が負けたのだから。

チームを導く者の「公約=志」が揺らいだら、

誰もついてこない。信頼は一気に消え去る。

結果オーライはありえないのだ。

 

あまりにも重要なこの真実を、

ガツンと肝に銘じさせてくれたエピソードがある。

 

PKの後、挨拶が終わり、

替りに出たキーパーが負けてベンチに帰ってきたとき、

正キーパーが一言彼に言った。

「お前でだめなら仕方ないんだ!よくやったよ、気にするな!」

この選手の度量の大きさ、強さ、仲間を思いやるやさしさ…まいった。

こちらの揺らいだ精神を、まるで受け流すような言葉。

気づかされた。

大義を忘れると、なんと小さくみじめなことかを。

「迷ったら、迷わず初志に、帰るべし」

 

選挙で政治家は選べるが、

選手はスタッフを選べない。

だからこそ、常に我々は“公約”をブラッシュアップ(精練)し、

声明し、実行し、評価し、また“公約”へ反映するサイクルを、

回していくことが大切だと思う。

 

いつまでも、教えられてばかりだなぁ~

選手の輝きに励まされながら、

自分の情けなさをまたまた省みる・・・

となりのトホホである。

 

再見